井上本店の歴史

自分が食べたいから、
家族にも食べてもらいたいから。

創業

醤油蔵としての創業は、
明治維新が起こる少し前、いわゆる幕末の元治元年(1864年)。

当時のことを記したものはほとんど残っていないのですが、
興福寺南側の猿沢池の近くに工場や蔵などがありました。

先々代 平蔵、今御門の自宅にて(昭和10年頃)

物流の中心地、京終へ

奈良市の京終(きょうばて)は、
現在では奈良市の中心地から少し離れたひっそりとした場所ですが、
貨物線や奈良安全索道(幻のロープウェイ)の駅でもあった京終駅周辺は
奈良北東部、中南部、大阪などを結ぶ物流の拠点として栄えていました。

現在、醤油蔵として使用しているレンガ造りの建物は、
そんな物流を支える氷会社の氷室(貯氷庫)として大正時代末期に建てられたもので
堅強な造りと温まりにくく冷めにくい特性を持っており、
1941年(昭和16年)頃に先々代 平蔵によって買い取られ、現在まで使用されています。

  • 今も現役のレンガ蔵

  • 近年あらたな観光拠点として復元・リニューアルされた京終の駅舎

醤油がつくれない。困窮の時代

実は弊社には醤油をつくることができなかった時期があります。

戦後の大きな混乱の中にあって、一部事業からの撤退や物不足などによって
思うように原料を手に入れることができなかったのです。

今御門の土地を手放し、京終の醸造蔵のみとなったのはその頃です。

柳行李の内張りの修復に昔の台帳が使われていたり、
家族が食べる用の米がなく、米麹をつまみ食いしたこともあったそうです。

配達用のバイクにまたがる先代 平祐(昭和30年頃)

“本物の醤油”をつくる裏方に徹した醸造職人

大きな借金も残る中で
マイナスからのスタートとなった先代 井上平祐は、
お酒の小売販売、濃縮ジュースや米糀の製造販売などで
なんとか事業を継続させながらも日々研究を繰り返し、
現在の井上本店の基礎を築き上げました。

戦後の混乱の中、効率優先に開発された生産技術、
1960年代に始まった中小企業近代化促進法による醤油業界の一様化、
海外でみられるような醤油風の旨味調味料に対して、

いち醤油屋の社長としてだけでなく、
自分の考える“本物の醤油”づくりを目指す醸造職人として
「醤油とは」「醸造とは」「微生物と人間とは」と問い続けました。





奈良新聞 昭和52年5月27日

思いがけず継承した六代目

先代から事業を継いだ現在の社長吉川修は醤油づくりの素人でした。
結婚したのが醤油屋の五代目の娘(現専務 惠美子)でしたが、
事業を継ぐ予定ではありませんでした。

「そろそろ会社たたもうかな…」
実家を訪れた時の先代との何でもない会話の中でふいに放たれた言葉。

「簡単だよ、できるできる」
今となっては本心は分かりませんが、先代のそんな言葉にのせられて、
気づいたら六代目を継ぐための慣れない醸造生活が始まっていました。

手取り足取り教わることはなく、
自分なりやってみて何かを見つけてゆく日々。
先代からの職人の体調不良による引退もあり、
一緒に醤油づくりに取り組めたのはほんの数年でした。




先代女将と現専務 惠美子 京終 場内にて
(昭和47年頃)

受け継ぎ守るもの、進化し変えるもの

井上本店の醤油づくりは、全てが“昔ながら”ではありません。

NK缶と呼ばれる大型の圧力釜、半自動製麹室、
小規模な蔵では珍しい加熱対応充填設備や分析室など
先代の頃から機械化されているものもたくさんあります。

これらの機械制御は先代が独自開発したものも多く、
メンテナンス、改良しながら現在も使用しています。

  • 先代の頃から使われているNK缶(圧力釜)

  • ストレートつゆの充填も可能な加熱対応充填機



醤油は単なる旨味調味料ではない。
元来、醸造は微生物が自らの生命をまっとうするために作り出す
貴重な生命物質を利用させていただくという先祖の遺産である。

先代が残したこの考え方こそが我々が守ってゆくものだと考えています。

そのうえで、
「自分たちが食べて美味しいと感じるものを造ること」に対して、
現代の科学的なアプローチや技術的な改善改良には積極的に取り組んでいます。

  • 蔵の微生物の影響を大きく受けるコンクリート製の開放タンク

  • 未来につなげてゆくための新たな取り組みとして、
    井上本店としては久々の木桶を使った醤油づくりにも挑戦しています。
    木桶職人復活プロジェクトに参加:2021)

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